第八期 熟練時代
昭和57年 〜 平成5年

大昭和、休部一年でよみがえる ・ 都市対抗で拓銀と新日鉄 黄獅旗を相次いで獲得
王子、初の都市対抗8強にNTTも2度目のベスト8 ・ 全国大会で表彰を受けた面々
協会解散、(財)日本野球連盟を設立 ・ 球宴の舞台、東京ドームに

アイコン 大昭和、休部一年でよみがえる
  昭和56年(1981年)12月10日、連盟関係者は大きな衝撃と困惑に包まれた。この日、大昭和北海道野球部休部の発表があったのである。しかし、その一年後の12月1日、大昭和北海道野球部復活の正式発表があった。従業員で組織する「復活を願う会」の発足があり、白老町民の「郷士の名門チームの灯を消すな、町民みんなのチームだ」とする熱烈な運動が通じたのである。著者は翌年2月の全国理事会で、「大昭和北海道の選手は立派である。会社に残った14人の選手は、再開のメドもないのに勤務時間後練習を続けた。それに感動した会社や町の若者、OB達がボール拾いを手伝った。そして、町民によって1万3593の再会要望署名が集められた」と報告。武田豊会長からは、「これこそ社会人野球のあるべき姿」という賞賛の言葉が贈られた。大昭和野球部ナインは、町民の暖かい応援に支えられ、「再び北の大地に黒獅旗を」ということを胸に秘め、それを目指してスタートを切ったのである。
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アイコン 都市対抗で拓銀と新日鉄 黄獅旗を相次いで獲得
  昭和59年は白髪良一監督(法大)率いる拓銀、翌60年は後藤哲夫監督の新日鉄が都市対抗でベスト4に進出し、本道代表チームが2年連続黄獅旗を獲得した。
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アイコン 王子、初の都市対抗8強にNTTも2度目のベスト8
  都市対抗で、王子が昭和62年に初のベスト8、NTTが平成4年に二度目のベスト8進出した。王子は、1回戦で三菱自動車川崎を8−7で破り、34年の初出場以来29年目で後楽園初勝利を手にし、続く日本鋼管も5−4で降しベスト8に進出したが、準々決勝ではNTT東海に1−5で敗れた。補強の小林(NTT)、2打席連続本塁打の沢田に加え、中島−山根のバッテリー、佐々木稔、長沢、阿部一行、竹林、佐々木一尚らの成長が目立ち、王子を三度導いた前監督の平田衛一(札幌光星高)の蒔いた種が実った。

NTTは、初戦の日本新薬戦、1点を先制された3回に狐塚(拓銀)が逆転の2ランを放ち、4回からの投番の吉井(拓銀)が締めて6−3で快勝。続く新日鉄広畑戦は、狐塚、春木、沢田(王子)のクリーンアップが全打点をたたき出し8−5で完勝したが、準々決勝の王子春日井戦は先発の吉井が打ち込まれ5−8で敗れた。井城、谷中田、池本、大村、寺田、橋本、斉藤英一、金子らの活躍も目立った。
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アイコン 全国大会で表彰を受けた面々
  平成元年の全国社会人ベストナインに佐藤真一が選ばれた。本道選手としては8年ぶり9人目である。なお、大昭和休部時に移籍した東芝で梁原修志外野手が2回、新木忠力遊撃手が1回受賞している。都市対抗では、久慈賞に渡部勝美、小野賞を拓銀チーム、10年連続表彰を拓銀の山本文博、NTTの小林彰、新日鉄の岡田仁と米山浩一が受けている。全日本クラブ野球選手権大会では、敢闘賞に函館太洋の阿部信投手(函館大)は2年連続と札幌倶楽部の古崎睦投手(北大)。首位打者賞を函館太洋の国分二三夫捕手(函館大)、高橋和敏内野手(函館商高)が獲得した。全国大会では、最優秀選手賞に岡山大会でNTTの池本祥吾捕手(釧路湖陵高)、北海道大会でNTTの太田政直投手(秋田高−現サンワード)、新日鉄の長山和英捕手(神奈川大)と別府信介(明徳義塾)、渡部勝美が3回。敢闘賞には、大阪大会で山本文博、東北大会で渡部勝美、北海道大会で王子の高橋秀之投手(釧路江南高)と原田佳典投手(滝川西高)、NTTの島谷磨投手(岩内高)と折館裕一投手(北学大)、大昭和の桐木孝司投手(道桜丘高)。そのほか最優秀投手賞に岡山大会でNTTの小林伸博投手(道工高)。首位打者賞を岡山大会で王子の佐々木稔とNTTの寺田昭雄、北海道大会で山本文博、大昭和の高木吉夫ニ塁手(中央学院大)、王子の竹林義孝ニ塁手(関西大)、新日鉄の平間英樹捕手(白糠高)が獲得した。
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アイコン 協会解散、(財)日本野球連盟を設立
  学生、少年野球団体の加盟の道開く
日本社会人野球協会は、昭和59年2月、日本体育協会への加盟に向け名称を日本野球連盟に改称。社会人野球のみに限定せず、日本学生野球協会所属を除く学生や少年野球団加盟の道を開き、62年に日本体育協会に加盟した。また60年には財団法人化に向けて、規約、組織、役員数を大幅に改正した。その後、平成2年2月28日、任意団体の日本野球連盟を解散、同日、財団法人日本野球連盟が設立された。同連盟の専務理事には小野秀夫が就任した。これらに伴い、昭和59年2月、日本社会人野球協会北海道地区連盟は解消され、北海道野球連盟(北海道地区連盟と同組織)を設立し、日本野球連盟に加盟した。さらに、平成2年2月、財団法人日本野球連盟の「この法人は、野球競技の普及振興を図り、もって国民の心身の健全な発達に寄付することを目的とする」の趣旨に賛同し、同連盟に加盟した。なお、道連盟は、平成5年2月に北海道野球連盟規約(北海道地区連盟と同契約・昭和60年2月制定)を廃止し、新たに「本連盟は、北海道における野球競技の普及振興を図り、もって道民の心身の健全な発達に寄付することを目的とする」という内容の規約を制定した。
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アイコン 球宴の舞台、東京ドームに
  オリンピックの野球競技は、昭和59年(1983年)のロサンゼルス大会、63年のソウル大会公開種目であったが、61年の国際オリンピック委員会で平成4年のバルセロナ大会から正式種目に採用された。これに備えて、平成2年2月20日、日本野球連盟と日本学生野球協会を所属団体をする全日本アマチュア野球連盟を設立し、日本オリンピック委員会(JOC)に加盟した。平成4年3月7日に史上初めて「バルセロナ五輪アマ・プロ交流試合」が神宮球場で行われた。一方、昭和63年、都市対抗の舞台が後楽園球場から東京ドームに移り、これまで炎天下の”真夏の球宴”として親しまれてきた大会は、屋根のある球場で行われることになった。
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以上、「日本野球連盟北海道地区連盟 50年史」より抜粋
























以上